道の駅水の郷さわらから、小野川沿い「北総の小江戸」を散歩(2026/3/15)
散歩のスタート地点は道の駅水の郷さわら。ここに車を停めて、利根川を眺めて深呼吸し、「また来たぞ、佐原!」と心の中で挨拶をしてから、散歩を始めた。
「適当に歩くか。あっちの方かな」
道の駅からなんとなくの方角に向かって歩き始める。ナビは使用しない。地図も見ない。測量の聖地に来ているというのに、その産物(地図)を利用しないとは我ながらどうだろうと今になって思う。
「で、道を間違えるんでしょ? 迷うんでしょ?」
適当に歩き出した私について歩きながら、妻が言う。
「そうかもね。でも前に一度歩いているし」
「そう言っていつも迷うじゃん。普通の人だったらブチキレだからね! 私だからついてきてるようなもんだ」
「感謝します」
「そうだ、もっと感謝しろ」
妻はびしっ!と私を叩いた。
いや、その感謝の印がこの散歩デートなんだけれどな。
「食べ歩きしたい」という妻の要望を聞き入れて、5年ぶりの佐原散歩を決行するに至る。あっちかな、こっちかな、と多少迷いながら細道を進む。迷っている最中が案外楽しい。迷うことに対して文句を言っていた妻も楽しんでいる様子だった。
楽しいけれど、迷ってばかりでは先に進まないので大通りに出ることにする。大通りを歩いていると、川を見つける。小野川だ。この川に沿って、佐原の「古い町並み」は展開されているから、川沿いに歩けば目的地までたどり着くはずだ。

小野川沿いを歩き始めて割とすぐに、道の脇に建っている建物の雰囲気が変わり始める。江戸末期から昭和初期に建てられた家々だ。次第に歩く人の数も増えてくる。犬の散歩をしている人、外国人観光客の姿が目立つ。異国の人は、こういう町並みに「日本らしさ」を感じるのだろうか。
「江戸時代ってこんなだったのかな」
ふと、思い浮かんだことをぽつりと言う。我ながら、情緒のある一言だと思ったが、「違うよ」と妻が即座に否定してきた。
歴史に詳しいとは決して言えない妻だから、どうせ戯言だろうが、とりあえず話を聞いてみることに。
「違うの? 君にとって、江戸時代の町はどんなイメージ?」
「もっと汚い」
思わず笑った。なんだ、汚いって。
「う○ちとか落ちてるの?」
「うん」
江戸時代にもトイレがあったはずだし。やはり、戯言だった。

ひとまず今回の散歩の目的である「食べ歩き」らしいことをしようと、店で揚げ物などを買って食べ歩いてみる。うまい。ただならぬうまさである。旅先で食うと旨味成分が確実に増す。
そのまま、小野川沿いの古い町並みを端まで歩き、妻のお目当ての店「さわら十三里屋」へ。店の前には木板が掲げられていて、そこにはこの建物は昔本屋であったことが記されていた。
「このお店、前は本屋だったんですか?」
「そうなんです。震災前までは」
「本屋も厳しい時代になっちゃいましたよね。雑誌なんか売上減る一方ですし」
などと、店主と昨今の本屋事情について話す。妻はそんな会話には当然無関心で、頼んだ注文の品が用意されるのをじっと待っていた。ここでは大学芋と干しいもだんごを買って、店の外に出てだんごだけ食べた。

だんごがうまい。これは旅先だからというだけでなく、どこで食べてもうまい味だ。ただ、食べたあとにだんごの蜜が手についてベタベタするのが難点だった。
だんごを食べ終えて、また小野川沿いを散歩。すると、妻が私の服に手をすりすりと擦り付けてきた。甘えてるのか、かわいいな。と一瞬でも思ってしまった私は馬鹿だった。
「あっ」と妻の行為の意味に気づく。
「俺の服で手を拭くんじゃありません」
先程だんごを食べた時に汚れた手を、私の服に擦り付けていたのだ。
「えへへ」
笑いながらも、妻は手を擦り付けるのをやめない。
「やめなさい」
「本当は嬉しいんでしょ?」
挑戦的な妻の返しに対し、しばし黙考したあとで「はい」と素直な気持ちを返した。
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香取神宮まで散歩〜佐原のなつかない犬と野良猫編〜
ちょいちょいつまみ食いをしながら歩いていたが、そろそろがっつりとしたものが食べたくなる。今度は昼飯を食べる店を探して小野川沿いを行ったり来たり。前述した通り、小野川沿いの道は犬の散歩をしている人が多かった。
「ここは猫がいない町だね。実家とは大違いだ」と妻に話す。水戸の実家付近は野良猫が多かった。町を歩けば猫にあたる、くらいの頻度で猫に遭遇する町だった。それに比べると、佐原の小野川沿いは猫の姿をまるで見かけない。その代わりに犬がいた。もちろん野良ではなく、紐に繋がれた犬だけれど。
店も犬連れを歓迎しているらしく、犬の入店が許可されている店をちょいちょい見かけた。私たちが入ったラーメン屋「Noodles Labo 香蕎庵」でも、犬を連れた客がいた。その犬は小さな犬種で飼い主の膝の上に乗って行儀よくしていた。飼い主が席を離れると、飼い主の方をじっと見つめて視線を外さない。
従順だ。かわいい。
私はその犬の視線と興味をどうにかしてこっちに向けようとして、必死にアクションを起こした。手で膝を叩き、犬にアピールしてみた。けれど、犬は席を離れた飼い主の方から視線をまったく動かさない。
「嫌われているのよ、犬に」
「いや、何でだよ。嫌われてるようなこと何もしてないじゃん」
「あなたの存在が嫌いなのよ」
「ひどいこと言うね」
などと妻にめちゃくちゃなことを言われても、めげずに犬へのラブコールを発信する。
「ほら、ほら、わんちゃん。こっちだよ。こっちを向いて」
それでも犬は、振り向かない。
挙句、席に残っていたもう一人の飼い主(奥さんだろう)が、そんな私を見ていて不憫に思ったのか、「ほらあっち向いてあげな」と犬に声をかけてくれたが、それでも犬はまったくなびかない。そのうちに、飼い主が帰ってくると犬は嬉しそうに尻尾を振って飼い主を出迎えた。そうそう、ここのラーメンはうまかった。

予定では、道の駅に戻って車で香取神宮まで行くはずだったのだが、道の駅まで歩いて戻る途中、妻が「香取神宮まで○キロ」という看板を見つけて、「歩こうよ」と言い出したので「え、まじで? もう疲れたんだけど」と言いつつ、まだまだ歩きたそうな妻の様子を見て、この際疲れ果ててもいいから付き合って歩くか、と覚悟を決めた。
歩くならば、車通りの少ない道がいい。それが路地であればなおいい。路地は、離れた土地に住む人々の暮らしが垣間見えて、その土地の生活になじんだような、住んでいるような錯覚に陥らせてくれるのが楽しい。
この家は立派だね、何の仕事をしているのかな?とか、この家はおしゃれだね、いくら稼いでいるのかな?とか(いや、結局金かよ)。
山や森や海や川などの自然の中を歩くのも楽しいし、店が並ぶ街中を歩くのも楽しいが、何の変哲もない住宅街や路地を歩くのもまた違った楽しみがある。
香取神宮を目指して佐原の路地を歩いていると、突然、猫に出くわした。子猫も含めて3匹ほどの猫だった
「にゃあにゃあ」
「にゃあにゃあ」
夫婦揃ってネコナデ声で猫に語りかけると、猫は颯爽と家と家の間の猫にしか通れない路地に逃げていく。妻が猫を追いかけようと、家と家の間の前まで走ると、そこにはまた、違う猫が3匹。ブロック塀の上で寝そべっていた。先程の猫3匹は、ブロック塀の猫のむこうでこちらを注意深く見ている。

「ありゃ」
「まあ」
驚く夫婦ふたり。
「猫屋敷だ」
「佐原には猫の気配が感じないと思ったけれど、こんなところに」
「にゃあにゃあ」と妻がしつこく猫を構う。ブロック塀の猫は不思議と逃げない。
その家の住人が世話をしているのか、だから人馴れしているのか。
「やめときな」
逃げないのをいいことに、猫に触ろうとする妻を、私は止めた。猫の目が「さわら(佐原)ないで」と訴えている気がしたから。
▼歩きながら歴史にふれるって何だか大人の散歩だよね▼
香取神宮まで散歩〜幸せは歩いていたらやってこない時もある編〜

県道55号佐原山田線を香取神宮に向かって歩いていると、コンビニを過ぎて一の鳥居を過ぎたあたりから歩道の幅が狭くなって、車の通りもそこそこあるから歩きにくくなった。ならば、少し遠回りになるけれど国道356号に(利根川・道の駅方面)まで戻って県道253号香取津之宮線を歩いて香取神宮を目指す方が安全と考えた。
実際、その通りで安全に歩くことはできたのだけれど、えらく、とんでもなく遠回りになった。一の鳥居から香取神宮の赤鳥居まで佐原山田線を歩けば1.6キロだったのに、香取津之宮線を歩くと3.5キロ以上、つまり倍以上の距離を歩くことになった。
「本当にこの先に神社なんてあるの?」
教会を通り過ぎた頃に、妻がさすがに不安になったのだろう、そんなことを聞いてきた。
「ある、はず」
スマホの位置情報が間違えてなければ、香取神宮はこの先にある……はずなんだけどな。
「いや、私たちの他に歩いている人なんていないんだけれど」
「香取神宮の看板もないよね。しかもこの先に香取神宮があったとして、この道をまた歩いて戻らないといけないんだよ。ウケるよね」
果たして、その先に香取神宮はあった(看板は分岐点に一つだけあった)。けれども、到着した頃には二人ともすっかり疲れ切っていた。歩いてきた道のりでは一人しか人とすれ違わなかったのに、香取神宮は人でごった返していた。皆、香取神宮へは車かバスでやってくるらしかった。

参道を脇目を振らず歩き、赤鳥居をくぐり、石灯籠が並ぶ道を歩き、参拝するのに行列に並んだ。そこそこの時間を立ったまま待っていたので、歩き疲れた足にさらに疲労が蓄積される。朱い楼門の中からは香取神宮の本殿の姿が見える。

茨城県の鹿島神宮、息栖神社と並んで「東国三社」の一つに数えられる香取神宮。茅葺き屋根と木造の社屋は黒ずんでいて、その黒のキャンバスに点在する金の装飾からは権威を感じた。その本殿の周囲には立派にそだった杉の木が囲み、雰囲気をよりいっそう神妙なものにしていた。

やっとのことで参拝を終えた私たち夫婦は、次男にお土産のお守りを買って(次男はお守り好きでコレクションしているのだ)帰ることにした。
参拝帰りに鳥居をくぐった後、踵を返して礼をする参拝客の姿を見た。
(これがマナーなのか、だったら真似しよう)
そう思い、妻に同様の行動をするように促す。
「神様にご挨拶をしなきゃね」
「神様なんていないよ」
妻が突拍子もなく、散歩旅の雰囲気をぶち壊すようなことを言う。
「へ?」
「いたら、今よりもっと幸せになってるはずじゃん」
「そんな……今だって幸せじゃない?」
「違うよ」
「これはまた、きついこと言うね」
今の生活に何が不満なんだ、妻よ(いや、不満は五万とあるか)。
幸せは歩いてこない。
だから歩いてゆくんだね。
水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」の歌詞を思い浮かべた。
けれど、私たち夫婦は既に散々歩いてきた。これ以上歩く体力もバスを一時間待つ気力も残っていなかった。だったらタクシーを使えばいいじゃないか。そう思って地元のタクシー会社を電話で呼んだ。
タクシーのシートに座った瞬間、とてつもない幸せを感じた。
2026/3/15 らくご舎
▼千葉の歩き方はこの本で▼

