汀(みぎわ)= migiwa = 波打ち際
それは、水戸のシェアスペースmigiwaに取材に行ったときのこと。取材中にオーナーの板谷さんが「これ、読んでみてください」と一冊の本を渡してきた。それが田尻久子の「みぎわに立って」だった。
板谷さんは、「田尻さん、すごくいいんですよ」と言う。さらに、「migiwaの名前は、この本が由来なんです」とも言う。終いには、「さらっと読めますから。三分くらいで読めます」なんて言う。
三分で読めるのか、と馬鹿な私は言葉を鵜呑みにしてその場で本を開き、読んでみる。「みぎわに立って」は1編が見開きで完結しているエッセイで、板谷さん「推し」の「田尻さん」による素敵な文章が綴られていた。1編読んだだけでも、これは良い本だな、と感じ取った。
次のページを開くと同じように見開きに1編が書かれていて、その次のページを開いても同じようで、その次のページを開いても、また次のページを開いても、次の次のページを……そこで私は気づいた。これは、とても3分で読み終えられる文章量ではない。
「借りていっていいですか、この本」
板谷さんに申し出た。
水戸市上水戸にあるシェアスペースmigiwaでは、一箱本棚オーナーという制度があって、月2,000円を払うと本棚のオーナーになれる。一箱本棚のオーナーというのは、どういものかというと、箱一つ分のスペースを借りて、そこに自分の本を置くことができる。
その本はmigiwaの利用者に貸し出すことができる。migiwaの店番をすることができる。というものである。
オーナーとはいえ、金銭的な収入はない。得られるものは、その「場」を利用する人々との交流である。
その制度を利用して、私は「みぎわに立って」を借りることにした。初回だったので500円の登録料を支払った。
「いつまでに返却すればいいですか?」と板谷さんに尋ねると「だいたい1週間くらいかな。2週間でもいいですけど」と曖昧な返事をされる。「はぁ」と私も曖昧な返事をして、本を家に持ち帰った。
「みぎわに立って」には、熊本市で「橙書店」を営む田尻さんが、その書店での日々をやわらかく飾り気のない文章が綴られていた。書店に来るお客さんとの交流のこと、熊本地震の時のこと、飼っている猫のこと、おばあちゃんと過ごした日々のこと、本のこと。お客さんからのいただきもののこと、熊本市というまちのこと、橙書店という本屋のこと。それらの話が、見開きに一編ずつものの見事に収まっていた。
最近の私は、小説にハマっていて森見登美彦やら恩田陸やらの現代を代表するメジャー作家の作品や、高山羽根子や松永K三蔵といった近年芥川賞を受賞した作家の本を読んでいた。どれも購入した本だから、気兼ねなく風呂に入りながら読んだ。けれど、「みぎわに立って」は借りた本だから、風呂で読むと濡らしてしまうのでイケない。夜、寝る前に、嫁が寝静まった頃、私は寝室から抜け出して書斎に寝ころんでこの本を読んだ。
小説ばかり読んでいたものだから、最初は一編が短すぎるのがしっくりこなかったが、読んでいるうちに田尻さんの世界に、橙書店の世界にずいずいと引きずり込まれてしまい、だんだんとエッセイを読んでいる感覚ではなく、物語を読んでいるかのような感覚に陥った。何気ない日常の断片が連なることで、大きな一つの物語になっていた。
その世界は、静かでおっとりとしていて、どこかノスタルジックなもので、読んでいて心地がよくなった。
かつて、私もこのような小さな本屋のオーナーになりたかった。いや、今でもなりたい。
小さな本屋で過ごす、静かな日々。儲けは少ないけれど、何とかやっていける分だけはどうにか稼げる。本屋をやりながら、ちょっとコーヒーが飲めたりしちゃったりして。本屋だけの収入ではやっていけないから、文筆業も兼ねたりしちゃったりして。
そして、そこにやってくる、様々な人々との交流。決して派手ではないし、華やかな生活でもない。日々はとても地味なものである。本屋という小さな箱の中で起こる出来事なんて、地味で些細なことばかり。でも、よく目を凝らして見れば、それはとても奥深くて、とても豊かな日常。
あれ? これは「みぎわに立って」まんまじゃないか。
私はこの本を読むことで、夢と現実の「みぎわ」に立っていたようだ。
シェアスペース migiwa
茨城県水戸市上水戸にあるシェアスペースmigiwaは、私設図書館のある交流拠点です。私設図書館では読書をしたり、のんびりと過ごしたり、シェアリビングではコワーキングやイベント・ワークショップの場としても利用できます。
波打ち際(汀)の写真
海で撮った波打ち際の写真を貼っておきます(なんとなく)。