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【第4話】ものづくりと小松菜づくり のおはなし

インタビューヒト
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塩田さんが農家を志したきっかけは、前職のWEBコンテンツ制作にあった

 

おはなしをしてくれた農家さん

塩田善一さん(1976年生まれ)
地域:茨城県行方市
栽培品目:小松菜
耕作面積:44アール

 

きっかけは、WEBディレクター?

塩田さんが農業を志したきっかけは、農業とはまるで畑違いのWEBディレクターの仕事にある。

東京で生まれ育った塩田さんは、デザイン業(版下)を営む父親の後ろ姿を見て育った。
そのせいか、「ものづくり」の仕事に対し特別な想いを抱くようになる。

「親父の仕事をずっと見てきて、デザイン関係の仕事に就きたいと思っていた」

高校を卒業後に、その想いを実現させようと行動に出た。
3DCGのデザイナーを目指し、都内の某有名専門学校に通い始める。
そこで3DCGを勉強するが、就職先の幅の狭さに気付き、現実との折り合いをつけて携帯サイトのコンテンツ制作会社に就職した。

そこでの仕事は、プロ野球の試合状況を携帯電話サイトで速報を流すという、当時としては斬新な仕事であった。

塩田さんが任された仕事は、”ディレクター”として、プロ野球選手を取材し、記事を書き、デザインをして、携帯コンテンツとして世に送り出すこと。

「その日の試合のハイライトを、500文字という制限の中で記事を書いていた。しかも、3分以内(理想は1分)という時間制限付きで。そういうのが、けっこう面白かった」

好きなプロ野球を毎日のように仕事で見ることができる上に、憧れだったデザインの仕事にも携われる。
天職かと思うほど、塩田さんにピッタリの仕事だった。

夜は遅くまで仕事で、休みもまちまちで多忙ではあったが、気の合う仲間もいて好きな分野の記事を書くことができる。
やりたかった3DCGの仕事ではなかったが、それなりの充実感は得られていた。

その充実した日々の中に、今でも忘れられない一日がある。

 

代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン

それは、2001年9月26日。
プロ野球のパ・リーグで、当時の大阪近鉄バファローズ(以下近鉄)が優勝を決めた日である。
近鉄は優勝マジック1の状態で、本拠地・大阪ドームに当時のオリックス・ブルーウェーブ(以下オリックス)を対戦相手に迎え入れた。
この日、取材のため球場に足を運んでいた塩田さんは、忘れられない出来事を体験することになる。

近鉄にとって、本拠地での優勝が期待されたその試合だったが、試合中盤から流れは完全にオリックスに傾いていた。
9回表を終えた時点で、オリックスの3点リード。
もはや、この日の優勝はないと、球場のファンも塩田さんも、諦めかけていた。
球団関係者も同じように思っていたに違いない。

だが、衝撃の展開が待っていた。
9回裏・無死満塁の大チャンス。
代打として登場した北川選手がホームランを放つ。
代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」だ。
このような名前のつく一打は、未だ北川選手しか打ったことがない。
記録とともに、記憶に強烈な印象を残す一打となった。

奇跡の大逆転劇に、当然ファンは大いに沸いた。
しかし、球団関係者は大慌てである。
優勝祝いの準備が万全ではなかったのだ。
塩田さんは、その歓喜と混乱が渦巻いた球場の中を、あちこち駆けずり回って取材した。

思いも寄らない、「まさか」の出来事。
その奇跡的な出来事が起きた現場に、塩田さんは確かにいたのだ。

「大変な思いをした。でも、面白かった」

既に10年以上も前の出来事であるが、塩田さんは昨日のことのように、その日の詳細を語ることができた。
それだけ、強烈な印象を受けた出来事だった。

農業は食べ物を作る仕事

だが、順風満帆のように思えた仕事も、時代の流れによって暗雲低迷の状況に変わっていく。
当時は目新しかったその企画だが、世間に定着し一般化するとともに、仕事の依頼がなくなっていった。
球団本体が、同じようなコンテンツを各々で作り出したのである。
塩田さんが所属していた会社は、あっという間に窮地に陥り、他社に吸収された。

塩田さんは、その後も会社は変われど似たような仕事に従事した。
やはり、ものを作るのが好きなのだろう。

しかし、これでいいのか? と現在の仕事に疑問を持つようになる。
WEBの仕事は楽しいが、元になる素材があって成り立つものだ。
情報にしろ、商品にしろ、他者が作り出す「もの」を宣伝するのがWEBの仕事の役目だと気づいた。
要するに、売る商品がないと成り立たない。

それに、充実はしていたものの、ディレクターの仕事に疲れも感じていた。
WEB業界は、日進月歩の世界である。
日々技術は進化し、よりクオリティーの高いものや新しいものを作り続けないと、読者に見向きもされなくなってしまう。

技術の進歩につられて、顧客からの要望もハードルが上がっていく。
上司の要求もハードになり、よりスピードとクオリティーが求められるようになる。
目まぐるしく変わっていく世界に、疲れと嫌気を感じるようになっていた。

それでも、ものを作り出す仕事は嫌いではない。
いや、むしろ大好きである。
ものを作り、世に送り出すという仕事内容自体は、塩田さんに向いていた。

「ならば」と塩田さんは考えた。

「大元になるものを作ろう」

大元になるものを自分で作り出せれば、今までの仕事の経験上、そこから先の宣伝方法はどうにかなる。
ならば、自分でその素材となる商品を作り出してしまおうではないか。

では、それは何だ?

「農業」の2文字が頭をよぎる。
当然のことながら、食べものは人間になくてはならないものだ。
農業は食べものを作る仕事である。
農業という仕事で、これから先の人生をまっとうしようではないか!
(まるでやったことないけれど!)

 

消費者には「過程」に目を向けてもらいたい

それから8年経った現在、塩田さんは茨城県行方郡の畑で農業を営んでいる。
東京という大都会で、毎日パソコンとにらめっこをしていたのが、今では毎日畑の土とそこから作られる野菜(小松菜)とにらめっこする日々に変わった。

野菜ができるまでの過程を見るのは楽しいよね。一作ごとに何かしら違いがある。作る度に課題が生まれる。種ひとつとっても、土に合う、合わないといううのがあるしね」

数年前までは農業の「の」の字も知らなかったのに、今ではできる野菜の質も量も安定して、それなりの収入を得られるようになった。
だが、「成功した」と呼ぶには、時期尚早である。就農前にやりたいと思っていた農業のカタチは、未だに実現できていないという。

消費者には、もっと過程に目を向けてもらいたい。こういう経緯を踏まえて、貴方が口に入れているものはできているんだということを、知ってもらいたい。いろんな理由と過程があって、不作があって、豊作があって、虫食いの野菜やカタチの悪い野菜ができる。それでこっちは苦しんだり、喜んだりしているんだということを、知ってもらいたい」

それは、つまり、消費者に「伝えること」。
まさにディレクター時代に塩田さんが取り組んでいた仕事だ。
伝える術は心得ている。だが、今は野菜を作ることで精一杯の状況だ。

WEBサイトのコンテンツ制作と野菜作り。

塩田さんの「ものづくり」という畑で、この二つの仕事が一つになるのは、もう少し先の話である。
今はその野望の実現のため、階段を一段上がったところだ。

 

執筆日:2015/10/25 らくご舎