出会いが人生の活路を開く力になる
おはなしをしてくれた農家さん
しどり園芸・市橋陽平さん(1980年生まれ)
地域 茨城県那珂市
品目 メイン:シクラメン、カーネーション、サイネリア、パパイヤ、きゅうり、茄子
面積 35アール
出会いの旅のはじまり
強い精神力があれば、人生を変えるような「出会い」を呼び込むことができる。
市橋陽平さんのおはなしを聞いて、そう思った。
「絶対あきらめない」
「死ぬまで何かやり続ける」
「何かできるはず、何かやってやる」
これらは、今回の取材の中で、何度か出てきたキーワードである。
どれもこれも、とても力強い言葉たちだ。
力強い言葉は、強い精神力から生まれる。
強い精神力があれば、どんな困難にも立ち向かえる、乗り越えられる。
ミッションをクリアしていくうちに、人生を変えるような出会いが必然的に訪れる……はずだ。
これからおはなしするのは、とある花農家が一生を捧げる仕事に出会うまでのものがたりである。
花農家の師匠との出会い
茨城県那珂市・瓜連地域に、市橋さんが営む「しどり園芸」がある。
しどり園芸はシクラメンやカーネーション、サイネリアといった花をメインに栽培する花農家で、市橋さんが一から築き上げ、10年の月日が流れた(2018年現在で11年目)。
両親が農家ではない、いわゆる「非農家」出身者が新規就農するのは、並大抵の努力では成し遂げられない大変なことである。
それなのになぜ、市橋さんは花農家をやろうと思ったのか。
「見渡す限りの一面が、赤やピンク、白の花で埋め尽くされていて、それが言葉にあらわせないくらいの刺激を与えてくれたんですよね。農業って野菜を作るイメージしかなかったのだけれど、でも、食べ物以外の花を作る農家さんもいるのだと知り、魅力的に感じました。花は人に喜ばれるために使われるもの。そういうものを生産する仕事はいいなと」
市橋さんが初めて花卉栽培の現場を見たのが22歳の時。
それは、常陸太田市にある花農家に見学に行った時のことである。
当時の市橋さんは、定職に就かずフリーターとして転々と働き、目標が持てずにいた。
「何かできるはず、何かやってやる!」と常々思っていた市橋さんだが、その「何か」が定まらない。
そんな折、「運命の出会い」が訪れた。
それが、常陸太田の花農家との出会いだ。
市橋さんが「師匠」と呼ぶその花農家は、市橋さんの人生を大きくひっくり返すような一言を述べた。
「市橋くんはまだ若いのだから、もっといろいろ見た方がいい」
4年間フリーターをしてきて、散々言われてきた小言=「ちゃんと働け、正社員になれ」とは言われなかった。
「どういうことですか?」と市橋さんが聞くと、
「アメリカに行ってみないか?」と師匠は返す。
「え?アメリカ? 行けるんですか? どうやって行けるんですか?」
アメリカとの出会い
師匠の言う「アメリカ」とは、社団法人国際農業社交流協会(JAEC)が実施する海外農業研修(アグトレ)のことであった。
実は、その師匠も若かりし頃にアメリカ研修を経験していた。
(師匠は2期生・市橋さんは36期生)
その経験を言葉ではなく、身をもって学ぶ機会を与えてくれた訳だ。
アメリカという言葉に胸が踊った市橋さん。
早速、手続きやら何やらを始める。
語学テストや国内での事前研修など、渡米までの1年間はその準備に追われた。
23歳の年に、2年間のアメリカでの研修が始まった。
まずは、ワシントン州のモーゼスレイクへ。
人口は2万人足らずの小さな町で、すぐ近くには大きな川と湖がある。
少し郊外に出るとまっさらな大地が広がり、そこにぽつんとある大学「ビッグ・ベント・コミュニティ大学」で研修を受けた。
そこでは、語学を学び、基礎体力向上のトレーニングをおこなったのだが、学び得たものはそれだけではない。
「在学中のアメリカの大学生と交流できたのは楽しかったですね。サッカーやったり、野球をやったり、食堂で一緒にご飯を食べたり。体力向上のトレーニングや起床時間が早いのはきつかったけれど。お酒が飲めないのもきつかった(笑)」
大学での研修が終わると、今度は農家のもとに研修に行く。
研修先は、専攻していない分野の農家。
市橋さんの場合は花を専攻しているので、野菜農家に行った。
そこには1年先に来ている日本人の研修生もいた。
「今度はお酒を飲んでも大丈夫だった(笑)。先輩たちがアメリカで車の免許を取っていたから、車で出かけることもできた」
そこでも新たな交流が生まれる。
研修先の農家には、インド人やメキシコ人の従業員もいた。
「インド人は頭にターバンを巻いてひたすら寡黙に農作業をしていましたね。メキシカンはイメージ通り陽気な人で。会話したり、ふざけあったり。喧嘩をしたこともありました。今思い出しても楽しい日々でした(農作業はつらかったけれど!)」
2年目に入ると、今度はいよいよ花農家へ。
そこは会社規模で農業をしていて、L.Aの某アミューズメント・パークに花を卸しているほどであった。
農作業は全部機械。
種を蒔いてから出荷するまで、台車に乗ったまま各ハウスを回って行く。
市橋さんはそこで、アメリカの大規模栽培の実態を見た。
日本の農業とは違う、スケールの大きさを感じた。
病との出会い
「アメリカに行った経験は、今の人生のいろいろなところで糧になっています。言葉がろくにわからない国に2年間滞在して学んだという経験は、“何でもできる“という自信につながりました」
帰国後、2年間の準備期間を経て、市橋さんは花農家として独立した。
アメリカ研修で得られた自信は、独立後の方向性を導き出した。
フリーター時代に持てなかった目標が、具体的になる。
「何かできるはず、何かやってやる」の「何か」が明確になったのだ。
どこの土地を借りて、資材は何を用意して、何を作って、どこへ売るか。
当たり前のことだけれど、今まで漠然としていた詳細の部分が決まり、「何か」が別の言葉に、それぞれの固有名詞に置き換えられた。
独立直後、事態は万事うまくいくように思えた。
だが、そうはいかなかった。
悪性リンパ腫という難病が、市橋さんの身体を蝕んでいたのだ。
まさに、これからという時期の出来事であった。
「頭の中が“うわーっ”となった」
それもそのはず、悪性リンパ腫とはいわゆるガンである。
当然、病状が進行すれば、死に至る。
花の師匠と出会い、アメリカ研修でさまざまな経験をし、たくましく成長した市橋さんも、さすがにその時は落ち込んだという。
ただし、落ち込んだのは「一瞬」だったが。
「何かできることはあるはず。生きている以上、何かしらやらなくちゃいけないから。絶対に諦めない。死ぬまで何かやってやる!という気持ちでいました。病気も仕事も、気持ち次第ですよ」
強い気持ちで挑んだ手術は、無事に成功した。
難病も、市橋さんの精神力の強さに参ったのかもしれない。
術後、5年経過しても転移は見られず。
市橋さんはその後も、ガンになったという過去を引きずることはない。
事実、今回のインタビューの際も、終わり間際に思い出したようにこのはなしをしだした。
「終わったことだから。もう関係ない。前しか見ていないので(笑)」
天職との出会い
「今思えば、フリーター時代の4年間も無駄じゃなかったと思えますね。4年間、悩み続けていたけれど、逆にたった4年で天職に就けたと考えれば短いもの。4年間は、ずっと何かを探し続けていたんだろうと思います」
そうして辿り着いたのが、今のスタイル。
花を栽培するだけではなく、花の育て方教室の講師を務めたり、野菜の苗を育てたり、と活動の場は幅広い。
だが、市橋さんの挑戦はまだ終わらない。
「常に、何かやってやろうという野望は持っています。今は安定してきましたけれど、安定じゃ気が済まない。今後は苗屋さんとしても確立していきたいです」
2018年で就農11年目を迎えた市橋さんの次の野望は苗屋のようだ。
そして、もうひとつの野望が町や人への恩返し。
「生まれ育った町だから。自分の経験をもとに、今やっていることを通して、いろいろ悩んでいる人に刺激を与えることができれば嬉しいです。かつての自分が師匠やアメリカから刺激を与えてもらったように」
探し続けたことで、巡り会えた出会いの数々。
出会った人の数だけ、市橋さんの「何か」は具体化されていくのだろう。
そして、近い将来、若かりし頃の市橋さんのように悩みを抱えた若者が、市橋さんを訪ねてくるだろう。
その時に、市橋さんはきっとこう言うはずだ。
「若いのだから、もっといろいろ見たほうがいい」
2018年11月 らくご舎
市橋さんのお花が買える直売所
・JA常陸 東海ファーマーズマーケットにじのなか
・JA常陸 瓜連直売所
・とんがりはっと(那珂市)
・ふれあいファーム芳野(那珂市)