「あの頃」に戻りたくなる本「夜のピクニック」
恩田陸さんが書いた「夜のピクニック」は、茨城県立水戸第一高等学校(通称:水戸一高)の歩く会を題材にした小説であることは、いわずもがな。水戸一高は、茨城トップの偏差値を誇る大変優秀な高校で、私なんぞは正直いってまったくもって縁がない高校で、友人を見渡しても一高出身者は思い浮かばないというのだから、本当にまったくもって縁がないのだろう。
と、思いきや。親族(いとこ)には水戸一高出身者がわらわらといて、本当に私は彼ら彼女らと同じ血縁なのかと考えると、夜も眠れない。例え同じ血がいくらか通っていたとしても、それはほんの少しばかりに違いなく、もしくは突然変異でこのような阿呆が生まれたに違いない。
そんな阿呆な私が、「夜のピクニック」を手に取って読む時がついにやってきた。2004年に初版が発行されてから、20年。その存在は発売当初から知っていて、けっこう昔に文庫版を購入したものの、何故だか「読む」という行為にいたらずに、長らく本棚の肥やし、もとい、本棚の飾りとなっていたこの本を。
スポンサーリンクというのも、最近小説にハマっていて、いやもともと小説は好きだったのだけれど、いつしかちょっとばかり難しい本をわかりもしないのに読むようになっていて、たまたま「バリ山行」を読んでから(バリ山行の作者も茨城生まれ)一気に私の中の小説熱が再燃し、次から次へと小説を読んでいて、さて、次は何を読もうかと考えて本棚の前に立った時に、直前に読んでいた「首里の馬」の世界観が忘れられず、それと似たような作品をと思い手に取ったのが、なんとジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」。
いや、ジョイスそもそも読んだことないやん。それなのになんで作風がわかるねん。と偽関西弁で自らに突っ込みを入れつつ本を開いたのだが、数行読んでまったく理解できそうにないと判断し、気を取り直して選んだのが「夜のピクニック」だったというわけで。
けっこう分厚い文庫本だったから、これは読むのに時間がかかるだろうと思いきや、読みやすい文章、読みやすい改行(改段落多いから頁数も増えるわけだ)で、しかも、めっちゃ面白いときたもんだ。遅読な私はたいてい本をひと月ないしふた月かけて読むのだけれど、「夜のピクニック」は一気に読めた。一週間もかからないうちに、読み終えた。
さて、その面白すぎる内容はというと、水戸一高っぽい高校(北高)に通う女子学生と男子学生(ともに高校三年生)が主人公で、二人を軸とした歩く会っぽい行事(歩行祭)の一日を描く。二人の間にはちょっとした秘密があって(あえてここでは隠しておこう)、その秘密のせいで二人はまともにしゃべったことすらないという関係性。
だから、軸が二つになる。女子学生の貴子(昭和・平成のネーミング)、男子学生の融(とおる)はそれぞれの友人と歩行祭に参加する。設定では、80キロの道のりをまる一日かけて歩くのが歩行祭なんだが、実際の歩く会は70キロだか60キロだかであるらしい(ぼんやり説明)。「まる一日」というと、朝から夕方くらいまでのイメージだが、歩く会もとい歩行祭の「まる一日」は本当に「まる一日」で、いくらかの休憩時間と仮眠時間をのぞいて、深夜の時間帯も外を歩く。
物語の中で二人が歩く場所は、風景描写から「あ、これはあそこのこと書いてるな」と地元民だからこそわかる場所も多い。例えば、序盤に出てくる沼。これ、絶対涸沼でしょ。水戸から近くい場所にある沼といえば、涸沼しかないでしょ(そんなことないかもしれないが)。赤い橋って、大洗に行く途中にある赤い橋でしょ。私は昔ここで釣りをしたものだ。それと、海。海といえば、大洗でしょ。たぶん、大洗から阿字ヶ浦の方に歩いたんでしょ、これ。違う?
ここまでは茨城県民ならでは、特に県央地域付近に住んでいる人の楽しみ方。「夜ピク」のすごいところは、そんなローカルな楽しみ方に限られないところ。伊達に本屋大賞を受賞してないし、吉川英治文学賞も受賞していない。「夜のピクニック」の真骨頂は、作品の青春性にある。
貴子と徹はそれぞれの友人と歩行祭にて歩く。とにかく歩く。足にマメができる前に予防として絆創膏を貼りつつ、歩く。歩きながら、友人と話す。下らない話だったり他人の恋の噂だったり。友人たちとの何気ないやり取りが、自分の高校時代を思い出させる。
ああ、私もこんな時代があったんだな……あれ、待てよ。私にこんな時代はあったのか。高校はサボってばかりだったし、友人らしい友人は高校にいなかったし、そんなだから高校行事にはほとんど参加していなかったし。彼女もできたようなできなかったような感じだったし。電車通学だったから、地元の駅まで歩いて行って、そこで地元の悪友に会うと「今日はサボるか」なんて言ってゲームセンターで一日過ごしていたな。まぁ、学力レベルと青春らしさにずいぶんと差があるが、あるにはあったのかな。
「夜ピク」で描かれる青春は、だいぶ品がよくて暑苦しくなくて、ちょっと影がある青春だ。温度帯でいうと、「さらば青春の光」by布袋さんでは決してなくて、かといって尾崎豊とかでもなくて、ゆずでもないな、今風にYOASOBIか? 「夜」つながりで。それとも、RAD? back number? いや、そもそも何で音楽に当てはめる。私は何となく、あだち充の漫画が思い浮かんだ。
淡々としている感じで、品がよくて、暑苦しくない青春。「夜ピク」の中ではずっと歩いているから、登場人物たちは暑いのだろうけれど。この暑苦しくない青春を漂わせながら、物語は場所を次々に移して外側は淡々と進んでいくのだが、舞台はずっと「歩行祭」で内面では劇的な動きを見せる。混沌とした思考が、最後はきれいに収束していく。その読後感は爽やかで、まさに青春そのもの。続きが読みたい!なんて思ってしまったが、それこそ野暮というもので。
青春というのは、人間が未熟で多感な時期だからこそ、美しく切なくて楽しいもの。長い人生の中での、ほんのひととき。「夜のピクニック」はその中のさらにひとときである一日を切り取って描いたものだからこそ、私たちに強烈な印象を植え付けたのではなかろうか。
「夜ピク」を読んでいる頃に、仕事でイベントの事務局を務めたのだが、「夜ピク」効果でキラキラした気持ちで仕事ができた。イベントとしては成功といえる成果だったのだろう。一緒に運営したチームメンバーも「楽しかった」と言ってくれた。イベント終了後に、運営メンバーからイベント中に撮った写真が送られてきた。
その中の一枚に、私が写っていた。自分の後ろ姿の写真を見て、絶句した。頭頂部の毛が、つむじあたりの毛が、明らかに薄くなっている。密度が低すぎて、もはや白い。周囲が髪の毛で黒いから、その白さが際立ってしまっていた。眩いといっても、過言ではない。その写真を見て、私は言葉を失った。これは、私じゃない。私であったとしても、私の頭ではない。
仕事としては輝いたものだったが、「夜のピクニック」とは違う種類の輝きが、私の頭部にもあったことに、深く傷ついた(これもまた青春か)。