野良本 Vol.26 木精 或る青年期と追想の物語 / 北 杜夫

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憧れの作家の足跡を辿り、人妻との情事に想いを馳せる……マンボウ先生がつづる追憶の旅

木精-ある青年期と追想の物語を読んで

ドイツに医学留学中の青年が、事あるごとに過去の恋(不倫)について思いを巡らせる。よほどの未練があるのだろう、その恋の記憶ははっきりとしていて生々しいものだ。

青年が敬愛する作家、リューベックの作家ことトーマス・マンについても同様だ。マンの代表作のひとつ「トニオ・クレーゲル」については文章の引用までされていて、尊敬ぶりがうかがえる。

青年はドイツに精神医学を学びに来たものの、作家になる夢を捨てきれず、そして恋人への想いも捨てきれず、悶々とした日々を過ごしていた……。

やがて、青年は旅に出る。トーマス・マンの故郷や小説の舞台になった国や町を巡る。現代でいうと「聖地巡礼」か。旅の間も度々思い出されるのは、激しい恋慕の末に終わりを迎えた恋の記憶。追憶の旅である。

北杜夫の「木精―或る青年期と追想の物語」をごくごく簡単に説明すると、そんなおはなしである。回想シーンが多く、物語の展開としては旅以外の部分では大きな事は起こらない。副題にある通り、青年の追想の物語である。

だが、描写がことごとくリアルである。恋のはなしにせよ旅のはなしにせよ、ドイツでの暮らしにせよトーマス・マンのはなしにせよ、とにかくすべてのことが仔細にわたり書かれており、それにリアルを感じ、惹きこまれる。

「作者自身の若き日の魂の遍歴をふり返り、虚構のうちに再構成した《心の自伝》」とアマゾンで紹介されており、なおかつWikiで調べたところマンボウ先生はドイツなどへの来訪歴があり、トーマス・マンの足跡を追う旅も実際にしているようだから、このリアルさにも納得がいく。

大好きな作家の足跡を追って、旅に出る……この本を読んでいて、自分にもそんなことがあったな、と思い出した。もっとも、私の場合はそんなに激しい恋もしていないし、旅の途中にもの思いにふけるなんてことはなかったが。

私は本屋で働いていた時、内田百閒にハマった。「ノラや」や「阿房列車」を読んで、その作家性に、いや人間性に惚れた。

変なこだわりがあって、わがままなようだけど人には慕われていて、知識が豊富でユーモアがあって。
お酒が好きで、食べることが好きで、猫が好きで、旅が好きで、電車が好きで、飛行機も好きで。

用事はないけれど旅に出て、旅先で何する訳でもなくご飯を食べてお酒を飲んで帰ってきて。
飼い猫が家出をしたら、幾日もそのことを悲しんで。それを文章にしたためて、本になっちゃって(映画にもなったな)。

なんだこのお方は! おはなしも面白いが、人間自体が面白い! となった。

それで、百閒先生のお墓参りに中野に行ったり、生まれ故郷の岡山に行ったりした。

だが、正直なところ岡山で何をしたか、あまり覚えていない。
殺し屋のような革のコートを着ていったのは覚えている。
タクシーに乗って吉備津神社に行ったのも覚えている。
運転手に「もしかして小説家さんですか?」なんて質問されて「いやいやとんでもない」と否定しながら、(そんな風に見えたんだ、うふふ)と内心喜んでいたのも覚えている。
岡山で昼飯を食うのに、チェーン店のココイチに入り、後悔したのも覚えている(せっかくなら郷土料理店に入れよ!)……けれど、それくらいの記憶力しか持たない私には「木精」のような文章は一生書けないだろうな。

「木精」でも、青年は旅先で飯を食う。「●●で●●を食べた」くらいの実にシンプルな描写なのに、それがとてもおいしそうに思えてしまうのが不思議である。特別おいしそうなお店を探して入っている訳でもなく、ビールと軽食で済ませてしまったりもするのだが、それでもおいしそうに感じてしまう。「素材の味を活かしていて…」やら「塩味が効いていて…」などという味の表現すらまったくないのに。

旅先での食事は特別だ。旅行中の高揚感が手伝って、何を食べてもうまい。ならば、ココイチですらうまい……はずなのだが。旅先で食べるココイチのカレーは「せっかく岡山まで来たのにココイチかよ!」という自分への叱責があって、正直おいしく感じなかった。日常で食べるココイチはおいしいのだが。

マンボウ先生のリアルな描写ゆえ、「追憶の旅」をしているシーンは旅行記を読んでいるようだった。事細かい描写が現実的な感覚を読み手に与えて、旅先の食事気分を味わわせてくれた。おいしそう! と感じたのは、マンボウ先生の筆力ゆえか。関係ないが、私が初めて海外に行った時持って行った本が北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」だったな。

この本を読んで私も「追憶の旅」に出たくなった。最近は若い頃と比べてやるべきことやしがらみが増えて、旅に出るのが「ついおっく(追憶)う」になりがちだが、コロナ禍が終わったら旅の計画を立ててみよう。

木精―或る青年期と追想の物語

どくとるマンボウ航海記 (新潮文庫)