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息栖神社と猫

コト
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茨城県神栖市の息栖神社で、猫を愛でる(2024/10/13)

駐車場に車を停めて、車から降りて、トイレへ向かって歩き出す。妻と一緒に、仲良く並んでトイレを目指して歩く。途中で猫が私たちに合流して、私と妻と猫は、二人と一匹で仲良く並んでトイレを目指して歩く。

「猫だ」

「猫ね」

「人懐こいな」

「そうね」

「毛並みがいいな。野良じゃないのかな」

「どうなんだろう」

よし、触ってみよう、となり、猫に恐る恐る手を近づける。猫はかわいい。そのフォルム、その表情、お目目、歩き方、気まぐれな態度、驚くほどの跳躍力。そのすべてが可愛らしい。だが、怖い。昔、猫に引っ掻かれて流血したことがあるから、こうして猫に触れようとする時、私は決まって「ビビる」。

ビビるけれど、かわいいから触りたい。ナデナデしてやりたい。

私は、そーっとその猫に手を近づける。猫は避けようとしない。どうやら触らせてくれそうだ。

だが、気を緩めてはいけない。あの時だって、私は猫と楽しくじゃれていたんだ。でも、猫は突然その愛すべき肉球のついた足から鋭い爪を引き出して、私の腕に会心の一撃をくらわせたんだ。

恐る恐る、かつ、大いなる期待を込めて、手をそのまま猫の方へ近づけた。猫はやはり逃げない。表情も変えない。さらにゆっくりとじわじわと手を猫の方に近づける。もう少し、あと少しだ。この間に抱いた期待と不安の入り混じった感情。それは宇宙のように限りなく広くて未知なる空間の中に放り出されて、ふわりふわりと漂っているかのよう。

長い時間をかけて、ようやく、やっとの思いで、私は、猫に……触れた。猫は動じない。むしろ、もっと触ってくれ、と体を摺り寄せてくる。(この猫、慣れている!)それは、嬉しくもあり悲しくもある事実だった。

何に例えよう、この感情は。好きだったあの子のがっかりシーンに遭遇した時とか。清廉潔白のように思えたあの子の正体は、男をたぶらかす魔性の女とわかった時とか。気になるあの子の頭の中は割と普通と判明した時とか(相対性理論)。そんな感じ。

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この日、私は妻と二人で茨城県は神栖市に出かけていた。妻の誕生日を翌日に控え、プレゼントは何がいいか、と妻に問うと「エビが食べたい」と言う。どれ、エビだな、エビがいいんだな、と自慢の検索力で茨城県のエビが食べられる店をパパっと調べ上げたまではいいが、どこに行こうか悩みに悩んだ。

生で食うエビ、フライにしたエビ、天ぷらのエビ。生で食べるなら海鮮系のお店だし、エビフライならとんかつ屋。天ぷらがいいなら和食のお店か蕎麦屋。一口にエビと言っても、調理の方法は様々だし、その調理法によって食べられるお店が違う。

「生は違うな。生の気分じゃない。フライか天ぷらだな」

2つに絞ったあと、妻は悩んだ。真剣に、悩んだ。挙句、「どっちでもいいや」となった。やめてそれ、一番困る。

最終的に、私が神栖市にある蕎麦屋「砂場」を選んだ。何故なら私が蕎麦が好きだから。

茨城県神栖市の蕎麦屋「砂場」の看板

砂場を選んで正解だった。そう思ったのは砂場の看板を見上げた時のこと。

「海老の大きい店」

看板には、確かにそう書かれていた。

「海老の大きい店」と書かれた看板を掲げるお店。そこに、普通サイズのエビが出るわけがない。出てきたエビは確かに大きかった。大きなエビと大好きな蕎麦を平らげて、私は大変満足した。もちろん、妻も同じであったと信じている。私の好物を自分の誕生日に一緒に食べることができて、心から喜んだに違いない、きっと。

満腹になった私たちは、腹ごなしに散歩をするのに、神栖市にある息栖神社に行くことにした。なぜ息栖神社かというと、なんとなく、名前を聞いたことがあるけれど、言ったことがないから、だった。その程度の知識で、私たちは息栖神社に向かった。そして、猫に出会った。

私が猫を撫で終えると、今度は妻が猫を撫でた。

「かわいいねぇ」

ネコナデ声でそう言って、猫を撫でた。

妻は猫を撫で終えると、トイレに行った。私は小用を足した。妻は手を洗った。妻は猫アレルギーだった。トイレから出ると、猫が外で待っていた。

「かわいいねぇ」そう言って、二人してまた猫を撫でた。

「また手を洗わなくっちゃ」

撫で終えると、妻は手を洗いにトイレへ戻った。

息栖神社は鹿島神宮、香取神宮とあわせて、東国三社と呼ばれていてる由緒正しき神社だった。鹿島神宮には行ったことがあって、それは妻と二人で行った場所であって、「行ったよね、鹿島神宮」と妻に言うと「そうだっけ、全然覚えてないや」とケロリと言われた。その時、鹿島神宮で神秘的で壮大な印象を受けたので、息栖神社も同じようなものだろうと期待していたが、案外こじんまりとした神社で肩透かしをくらった。

小さいながらも雰囲気はよくて、ご神木も立派なものだった。旅先で、寺社仏閣に立ち寄りたくなるのはなぜだろう。ふと、そんなことが頭をよぎるが、すぐに忘れ去って、家族の健康を願ってきた。お参りを済ませて、二の鳥居から一の鳥居へ向かう。そこには、小さな鳥居が二つ並んでいて、鳥居の足元には小さな池みたいなのがあって、おじさんが掃除をしていた。

「この水の中にはね、カメがあるんだよ」

「亀?」

おじさんの言葉に、二人して亀を想像した。お茶目な夫婦である。

「甕ね」

「ああ、甕ですか」

「男と女を現わしていて、男がお銚子、女がお猪口になっているんだよ」

「へぇ。てか全然見えない」

じっくりと眺めていると、うっすらとその形に見えるような気がしなくもない。

こうして旅先で現地の人と触れ合うのは、旅の醍醐味のひとつだ。いや、でも私も茨城県に住んでいるし、住んでいるところ(水戸)から神栖まで一時間と少しあれば着いてしまうので、旅というには少々大げさだ。小旅行、いや、ことりっぷだ(昭文社)。

おじさんに別れを告げて、私たちは一の鳥居の先にある、水門まで歩く。利根川がすぐそばに流れている。川沿いにきらきらと光る川面を眺めながら散歩して、妻の話に「うん、そうだね」と適当に相槌を打って、遠くにかかる橋を見て、「あそこまで歩こう」と妻に言う。「無理」とさらりと断られて、そのへんで踵を返して元来た道を歩いて息栖神社の方へ戻る。

すると、途中に猫がいた。先ほどの駐車場にいた猫とは違う。猫は2匹いて、仲良く日向ぼっこしていた。こちらも人懐こそうで触らせてくれそうだったが、また手を洗うのが面倒だからやめといた。

少し歩くと、神社の石柱にも猫が寝ころんでいた。それから駐車場への帰り道にも猫が。

「あれ、この子は最初に出会った駐車場の猫では」

「そうみたいね」

「まだこのへんにいたんだ。それにしても息栖神社は猫だらけだな」

駐車場の猫は、欠伸はしていなかったけれど、日々を息栖神社でこうしてのんびり過ごしているんだろう。ふと空を見上げると、秋の夕焼けがもうすぐ始まりそうだった。

息栖神社(茨城県神栖市)

2000年以上の歴史を持つ神社。アメノトリフネがまつられている。鹿嶋市の鹿島神宮、香取市の香取神宮とともに「東国三社」と呼ばれ、江戸時代よりこの三社をめぐる「東国三社巡り」なるものが行われていた。ご神木は途中から幹が分かれる樹齢1000年の夫婦杉。ほかにも宮杉、宮桜など古木が多く、神社の森は「息栖の森」と言われている。一の鳥居の脇に小さな鳥居が二つあり、その柱の下に泉が湧き出ている(「忍潮井(忍塩井)=おしおい)。息栖神社付近には野良猫が多く、息栖地域猫保護会によって保護活動が行われている。

住所:茨城県神栖市息栖2882

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