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行方市の塩田さん 終

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農家廃業(2025/8/12)

2020年から毎年1度、夏にだけ会う人がいる。塩田善一さんという葉物農家がその人だ。

塩田さんに会って何をするかというと、ほぼ毎年草取りをしていた。クッソ暑い真夏の日差しの下で、土埃にまみれながら、全身汗まみれになりながら、塩田さんのぼやきを聞きながら、密林のように伸びた草々を、取る、ひたすら、取る。そんな1日を夏になると決まって過ごした。

夏のアルバイト? とんでもない、無償である。この夏の1日は、私が塩田さんに捧げる愛情というか友情というか、まぁそういった類の感情から起こるものであって、ただそれが何日間か続けて作業をしているなら「偉いな」と世の人に言われるほどのものなんだろうが、結局毎年1日しか行かないのは、まぁそういうことなんだろう(暑いし、疲れるし、汚れるし)。

それでも毎年夏になると、塩田さんの顔と一緒にセイタカアワダチソウの群れを思い出して、行って草取りをすれば、暑いし、疲れるし、汚れるし、そういう思いをするとわかっていても、草を抜きたくなって、塩田さんのぼやきを聞きたくなって、わざわざ行方市の畑に向かう。やっぱり毎年1日だけなんだけどね。

「今年も行っていいですか?」

お盆休みが近づいてきたある日、塩田さんにメッセージを送った。しかし、なかなか返事は来ず。

どうした? 塩田さん。来てほしいんでしょ? 今年も一緒に草を抜きたいんでしょ?

「来て!来て!待ってます!」というメッセージが瞬時に返信されるものだろうとばかり思っていたのに、メッセージを送ったその日に返信は来ず、次の日も来なかった。

そしてその次の日。やっと塩田さんからメッセージが返ってきた。その内容に、驚かずにはいられなかった。

「ごめん。俺げの畑、もうなくなっちゃったんだよ」

えぇぇ?! どうゆうこと?!

「ま、簡潔に言うと廃業でさぁね」

は、廃業? まさか、と思ったが、近年塩田さんの畑に行って、いろいろと話を聞いてきた中で、確かに経営が苦しいようなことは言っていた。けれど、廃業するほどに厳しかったとは。

「飯でも食いに行くかい?」

もちろん! ということで、今年の夏は塩田さんと草取りをするのではなく、飯を食いに行ってきた

「最近、Tiktok始めてさ、ポイ活なんだけど。それに載ってた店に行ってみたいんだけど、いい?」

し、塩田さんがTiktok? ポイ活? 農家の塩田さんにはそういう流行りものは合わない気がしたが、もともとWEB系の会社で働いていた人であるから、塩田さんらしいといえば、らしい、ような気もした。

「いいっすよ、どこっすか?」

「茨城町の情熱キッチンってお店」

私は水戸から茨城町を通って塩田さんの住む鉾田市にやってきて、塩田さんを乗せてまた茨城町で飯を食って、で、また鉾田に戻って塩田さんを送って茨城町を通って水戸に帰ることになるが、この日ばかりは仕方ない、廃業した塩田さんの気が済むならば何だってしてあげたい気持ちだった。車を走らせ店に向かいながら、塩田さんの近況を聞いた。

2025年3月、塩田さんは今まで12年間耕してきた畑を手放すことになり、「自営農家」ではなくなった。細かいことはよくわからないが、理由はお金にある。何年か前の夏にも「自転車操業だよ」とぼやいていたのを思い出す。

それからの塩田さんは「自営農家」ではなくなったが「農業」は続けているようで、現在(2025年8月)は、茨城町のニラ農家のもとで「雇われ農家」として働いているらしい。

それを聞いて、少し安心した。無責任な話だが、私の知っている塩田さんは「農家」の塩田さんであり、塩田さんが「農家」だから、元・雇われ農家であり現在趣味のブログで農家のことをちょっとだけ書いている私と「縁」があってつながれているような気がしていて、塩田さんが「農家」でなくなることで、そのつながりがなくなってしまうのでは? という恐れを少しばかり抱いていた。

また、同時に自分自身への不甲斐なさを感じた。大変な思いをしていた塩田さんを救ってあげることができずに、廃業させてしまった。わかってはいたが、年に一度の草取りの手伝いなど、まったく手伝いになっていなかった。塩田さんの喋り相手くらいにしかなれていなかった。そう思うと、途端に責任を感じた。私ごときがどうこうできる問題ではなかったのだろうけれど、それでも、苦しむ友を救ってあげたい気持ちは心の中にはあって、でもだったらもう少し草取りを手伝えばよかったと後悔した。年に1度ではなく、せめて、年に2度くらい。

「ここの刺身定食がすごいのよ。Tiktokで見ると。盛りがよくてさ」

開店少し前に情熱キッチンに到着した。塩田さんがそう言うので、海鮮の店なのかと思い店の前に行くと「焼肉屋」と描かれた看板が立っていた。刺身のうまい焼肉屋なんだろうと思い、開店早々店に入って刺身を注文しようとすると、「今日は予約が入ってて、刺身が切れちゃって」と店員が言う。

なんのこっちゃ。仕方ないから肉を注文する。お値段は、まぁまぁ高い。高い分、肉の盛りが良いのだろうと思ったが、到着した肉を見ると4切れほどしか皿に載せられていない。味の方はお値段程度にうまかったが、気分は「海鮮」だったので何となく満足できない。

「もう一軒、行きますか」

「そうしよか」

私は再び車を走らせ、塩田さんの勧めるラーメン屋がある鉾田市に戻る。ラーメン屋の前に着くと、明かりがついていない。店休日だ。

「寿司にしましょうか。さっきのリベンジで。魚食いましょう」

また少し戻ったところにある、鉾田のはま寿司に入る。念願の海鮮を食べながら、また、塩田さんと話す。

「農業を辞めようとは思わなかったんですか?」

「正直農業が向いてないかも、とは思った。違う仕事もちょっとは考えたよ。でも年齢的にも、また仕事を一から覚えなきゃいけないことを考えても、それはないかなと」

「例えば、前のWEBの仕事とかは?」

「ないっす」

「え、なんで?」

「面白くないもん。自分がやっていた時と時代も違うし」

塩田さんがWEBディレクターをやっていた時はi-modeの時代。通信量が少なくてテキストが情報の中心だった。

「少ない情報量の中で、どうやって面白くしようかと考えていた時代だからね。今とはまるで違う」

「確かに、今のWEBの仕事は動画だのAIだのといろいろとややこしそうですね」

と聞きながら、私はスマホでポイ活のための広告視聴をせっせと進める。

「ポイ活してるやん、話聞いてないやん」

「いやいや、この作業はもはや日常的なものであって、タスクの一つとして処理しているので、話を聞く分には何ら問題ないっす」

「ああ、そうなの。マルチタスクねぇ」と不満げな塩田さん。

「大丈夫です、ちゃんと聞いてますので」と広告視聴を続けるどこまでも失礼な私に向けて、塩田さんは話を続ける。

「時代が変わって、見せ方や手段が変わっても、結局はネタ自体が面白くないとダメなんだよね。だったら前にも言ったけれど自分でネタを作る方にまわった方が面白い」

”情報にしろ、商品にしろ、他者が作り出す「もの」を宣伝するのがWEBの仕事の役目”

”ものを作り出す仕事は嫌いではない。いや、むしろ大好きである。ものを作り、世に送り出すという仕事内容自体は、塩田さんに向いていた。「ならば」と塩田さんは考えた。「大元になるものを作ろう」”

出典元:ものづくりと小松菜づくり のおはなし/ちょっと自然な生活

「そういえば、最初の頃のインタビューでそんなこと言ってましたよね」

そのインタビューをしたのが、2015年。10年前の言葉が、今も塩田さんの中で生きている。なんて素晴らしいことだろうか、と私は感心した。「大元になるもの」を作る仕事、それが塩田さんにとっては「農業」だった。

「やっぱり農業が面白いんだよね」

塩田さんが言う。

「ニラ農家で働いてみて、どうですか?」

「ジャンルが違う農業をやっていて、いろいろと話が聞けて面白いよ。こっちの話も面白そうに聞いてくれるし、もっと聞いてみたいことがたくさんある。今までよりも楽しいかもね」

そうか、と思った。塩田さんはパートを雇っていたとはいえ、農業をしていて孤独を感じていたのだと思う。パートは高齢者の方が多く、年齢的にも立場的にも、心を許して話し合えることはなかったんだろう。それが、今は自分が今までやってきた「自営」をしている農家と一緒に働いている。今まで自分が作ったことがない野菜を作っている農家で、年齢も近いという。塩田さんにとって、パートナーと呼べるような存在ができたのではないか。農業を始めて13年目の夏に。

「経営者ではなくなった分、気楽になったのもあるよね」

「塩田さんはサポートの立場が向いているのかもしれないですね」

2023年の夏に草取りをした時、塩田さんは「自分には人を集める力がない」ようなことを言っていたのを思い出してそう言った。

なんだ、これでよかったのかもしれないな、と思った。廃業はしたけれど、塩田さんは新しい道を歩み始めている。そして、それを楽しめているし、未来のことも楽しめそうではないか。塩田さんに会って話して、そんな風に思った。

寿司を食べ終えて、塩田さんの家まで送ると、車の中でも塩田さんが語り出した。

「フリーファーマーって前に話したんだけど、覚えている?」

ごめんなさい、まったく覚えていない。それ、本当に私に話しました?って疑っちゃうくらいに。

「なんでしたっけ?」

「技術を持った農家がさ、いろんな農家のところに手伝いにいくってやつ」

そこまで聞いても、やっぱり思い出せない。けれど、「ああ、言ってましたね、そんなこと」と話を合わせる。

「実は今回のことがあって、いろいろな人に声をかけてもらったのよ。俺のところで野菜作らないか?って。まぁ、断っちゃったんだけどさ。でもさ、12年間農業やって、JGAPも有機JAS認証も受けて、そういう農業経験を持つ俺なんかがさ、意外に需要があるんじゃないかって思ったわけ」

「確かに」

「日本ではずっと農業やる人が少なくて困っているけれど、農業に対して手厚い国もあるわけで。日本の農業は最先端をいっている、というイメージがあるけれど、それよりも進んでいる国もある。このままだと日本の農業もどんどん先を越されてしまうかもしれないよね」

「農業をやる人がいないということは、自分たちで食べるものを自分たちで作れなくなってしまう、ということですからね。国としてとても弱い立場になってしまいますよね」

農家というのは、貴重な存在だ。それなのに、塩田さんは廃業してしまった。もっと農家を国が守るべきではないか。そんな話を最後にして、塩田さんと別れた。

 

夜の鉾田は、裏通りに入ると明かりが少なくて、どこを走っているのかわからなくなって、私は道に迷ってしまった。訳のわからぬまま暗い夜道を走り続け、塩田さんとの会話を思い出した。塩田さんの気持ちには迷いがなかった。明るい未来に胸躍らせているような感じすらした。

辺りに何もない暗い道であったが、明るい街の光を目掛けて走り続けると、知っている道に出た。迷いは晴れた。あとは、突き進むだけだ。

 

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