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【第10話】移住の旅の終着点は、故郷だった

インタビューヒト
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全国各地を旅するように移り住んできた根本樹弥さんが、
自然農をやる場所を求めて辿り着いたのは、故郷の城里町だった。

農家紹介

里芋を収穫する根本さん。機械は草刈り機しか使わない。

根本樹弥(たつや)さん(1975年生まれ)
地域:茨城県東茨城郡城里町(旧・七会村)
品目:ルッコラ、花オクラ、加茂ナス、青ナス、黒ナス、トマト、枝豆、安納芋、小松菜、落花生、空心菜、ブロッコリー、インゲン豆、生姜、マコモ、きゅうり、唐辛子、粟、ホーリーバジル、ピーマン、大根、ネギ、イタリアンタンポポ、小豆、里芋、ビーツ、金胡麻、春菊、こかぶ……などなど。
栽培方法:自然農(不耕起栽培・無施肥)

根本樹弥さんインタビュー・プロローグ↓

根本樹弥さんの移住旅

新島の海

根本さんは度々、旅に出る。
いや、正確にいうと、旅というよりも移住なのだが、移住というよりも旅という方がしっくりくる。
「旅をするように生きて来た」というのが、正解なのか、どうなのか。

とにかく、これから語らせていただくのは、根本さんの旅の”あらまし”だ。

根本さんは、茨城県城里町で生まれ育ち、東京都心、伊豆諸島の新島、長野県の南牧村、山梨県の北杜市、神奈川県の葉山町、千葉県の香取市と移り住んだ。

それぞれの場所では、それぞれの仕事をし、それぞれの出会いがあった。でも、そこには「農と食」が常にベースにあって、それが城里町に戻ってきた今、根本さんの生業となっている。

では、それぞれの場所で根本さんはどのように生きてきたのか。

……

「東京の大学を卒業して、やりたいことが特になかったので、城里町に戻って実家の稼業(建設業)を手伝っていました」

根本さんがとつとつと語りだす。

「やりたいことが特になかった」というのが、私には意外であった。現在の根本さんは、「やりたいこと」を大いにやっている。普段は農業(自然農)をして野菜を作り、週末の夜はフォレストピア七里の森のバーで働きつつ、時折イベントの運営をしたり、DIYで何かを作ったり。一つの型にハマらない、自由な生き方だ。

そう、根本さんには「自由」という言葉がしっくりくる。だから、今までもきっと「やりたいこと」をやってきたに違いないと思い込んでいた。

だが、その意外な一面もその時だけで。話を聞き続けていると、その土地土地で「やりたいこと」をとことんやり続ける、イメージ通りの根本さんであった。

「5年くらい働いたのですが、結局建設業界が合わなくて。ちょっと逃避行じゃないけれど、最初に外に出ようと思ったんです」

東京R不動産が手掛けた新島のカフェ+宿saro

 

そうして、移り住んだのが伊豆諸島の新島であった。新島ではリノベーションで有名な東京R不動産が始めたカフェ+宿Saro(サロー)という民宿で、そこで住み込みのバイトをした。

「遊びに行ったつもりが、オープニングスタッフとして働くことになって」

成り行きだった。
でも、その成り行きが人生のターニングポイントになる。

「今の自分があるのは、新島での出会いが一番大きい。新島で日本のトップランナーの人々と出会えて、そこでいろいろな刺激を受けました」

一緒に働いたスタッフは、漫画家だったり、ライターだったり、お菓子職人だったりと、個性的な面々。
泊まりに来る客は、メディア関係の人や芸能関係の人、事業家など都市的な仕事をする人が多かったという。城里町に住んでいては、滅多に知り合えないような職業の人々だ。そのような人々とつながりを持ったことで、根本さんの中で何かが変わり始めた。

現在も根本さんの生業の一つになっている「料理」は、この民宿での仕事で覚えた。

「それまでは味噌汁も作ったことがなかった」という根本さんであるが、この新島での料理の経験は、今にもしっかり受け継がれている。

Saroで働いた後、根本さんは一度城里町に戻ることになる。新島で刺激的な日々を送ってきた当時の根本さんにとっては、城里の暮らしは少し退屈に思えた。

「とりあえず、外に出たくて」と次に向かったのが長野県の南牧村であった。南牧村では半年ほど高原レタスの収穫のバイトをした。それが、根本さんにとって初めての農業だった。根本さんが35~36歳の時のことである。

長野県の後は、山梨県へ。
北杜市にあるカフェ「くじらぐも」でお世話になる。「くじらぐも」は古民家をリノベーションした古民家カフェ。今ではよく聞く「古民家カフェ」であるが、この「くじらぐも」はその走りであったそうな。

 

 

その「くじらぐも」に野菜を卸している有機農家さんと知り合いになり、夏から秋の平日はその有機農家を手伝うことに。更には、平日の夜にイタリアンレストランで働き、週末も「くじらぐも」で働くことになった。

「その時のイタリアンでは、冷凍食品を出したり、化学調味料をばんばん使っていたりして。こんなものをお客さんに出してお金を取っているのかと。それから、素材からちゃんとしたものを提供したいと思って、自分で飲食店をやろうと思いました」

根本さんが飲食の道を志したのは、この山梨時代。同時に、現在のようなワークスタイルになったのも、この頃からだ。二足の草鞋ならぬ、三足の草鞋である。

「いろいろやりすぎて、訳わかんないですよね」

なんて根本さんは自嘲気味に言うが、とんでもない。複数の仕事をこなす器用さとタフさ、そしてそのチャンスを得るコミュニケーション力など羨ましいくらいである。

それからそれから。

東京に住む妹さんを頼って、東京暮らしを2年ほど。居酒屋でバイトをしながら、当時付き合っていた女性が務める貸農園で週末指導員としても働く。そして、神奈川県の葉山へ移住。三浦の農家にアルバイトへ行って、夜は逗子のイタリアンで働いた。

葉山時代の根本さん

その後は週末だけのホットドッグ屋を自ら経営。昼間は三浦の農家でバイトをし、借りた畑で自分の野菜も作った。更に、夜はスーパーでアルバイトもした。この時、草鞋は四足に増えた。

ホットドッグ屋は念願の飲食店経営であったが、半年で辞める。そのホットドッグ屋のお客さんだった人が事業家で、ホットドッグ屋を辞めた後はその事業を手伝うことになる。

「ギョサンって知ってますか?」

と、そこで根本さんに聞かれた。
ぎょさん?
初めて聞く言葉に、いろいろと漢字をあてがってみるが、どうにもピンと来ない。

「漁業サンダルの略です。漁港に行くとみんなこれを履いているんですよ。今も履いているんですけど」

と言って、履いているサンダルを見せてくれる。何ともサンダルらしい形をしているサンダルで、近頃流行っているアウトドア的なデザインとは程遠いものであった。

「その人は、このギョサンを販売する事業をしている人だったんです。他にもいろいろと事業をやるのが好きな人で。鎌倉の大仏前でたこ焼き屋をやったりしていて、僕はそれも手伝ってました」

 

 

当時はギョサンの手伝いだけではなく、カフェもこなした。それも、ある人とのつながりがきっかけだ。
その「ある人」とは、故ジャック・マイヨールさんである。人類史上初めて、素潜りで100mを超える記録を作った偉人だ。

「マイヨールさんが葉山に古民家を持っていて。そこの厨房がプロの料理人が使うような仕様になっていて、業務用のガスコンロが3つもあったんです。そこでカフェをやらないか?と誘われて」

マイヨールさんの古民家では、現在の奥さんと一緒に週末だけのカフェを開いた。根本さんが厨房で料理をして、奥さんがホールを担当。占い師でもある奥さんは、ホール兼任で占いもやった。

城里町にある阿久津商店では、根本さんがセレクトした古道具を販売している。

葉山時代には、古材屋も手伝っている。

「桜花園(おうかえん)という古材屋さんがあって。湘南周辺で古民家を取り壊す時に小物を取りに行って、それを再利用するという。そこでDIYを好きになって、古い物の良さを知りました」

そう、最近の根本さんは、自分で物も作ってしまう。笠間市にある「有機農家が作ったオーガニックの店」に置かれたベンチもその一つだ。このDIYは今後の根本さんの「やりたいこと」になっている。

「今は言の葉(コトノハ)というカフェにピザ窯を作って欲しいと頼まれて、作っています。うちは建築屋の家系なんですが、僕は全く建築には興味がなかったんです。それが最近になって火が付いて」

 

 

DIYのD.N.Aが騒ぎだしたという訳である。
では、根本さんはDIYで何がしたいのだろう?

「今は空き家が多い時代なので、そこをリノベーションして住めるようにしたい。空き家をリノベできれば、家を探している人に住む場所を提供できる。都会に住んでいて、生きているのか死んでいるのかわからないような生活をしている人に、受け皿を準備してあげたいですね」

確かに、空き家はいくらでもあるけれど、廃墟のような状態で人が住めたものじゃないものが多い。そうした場所をリノベーションして住めるようになれば、地方移住を希望する人に、手頃な住まいを提供できるかもしれない。

「地方が元気になれば、日本が元気になると思うんですよね。今の日本人は絶対に不自然な生活をしているんですよ。何でもかんでも東京に集まっていて。それでは、非常時に生き残れない。非常時こそ、野菜とか食べ物を作っている人が強い。人間力が試されるというか」

と、地方について熱心に語る根本さん。
DIYで魅力的な「地方」を作ろうとしているのかもしれない。

さて、閑話休題。

根本さんは葉山の古材屋・桜花園の手伝いをしながら、そのショールームを利用して3店舗目の飲食店(カフェ)も始めた。
その後、単身千葉兼香取市に移住。
自然農で野菜を作る「くりもと地球村」に農作業員の助っ人として加わる。

「そこで出会った鹿嶋市(茨城県)の農家が、「Soil Life」という自然農の農園をやっていて。その農園の代表が、水戸の草っぽ農園で研修を受けた人だったんです」
草っぽ農園…水戸市で自然農をしつつ、マクロビオティックにも取り組んでいる農園

つながりがつながりを呼ぶ。

根本さんの話を聞いていると、とにかく「人と人とのつながり」がどこにいっても存在していて、その「つながり」が彼の人生を支えて来たように思える。根本さんはいろいろな土地に住んで、いろいろな人に出会ってきた。そして、その出会いを素直に受け入れ、その人から仕事や生き方などを吸収してきた。

民宿・農業・レストラン・カフェ・漁業サンダル(事業家)……。根本さんを形成しているのは、間違いなくこれまでの「出会い」によるもので、数々の出会いで得たものを切り捨てることなく、今に活かしている。

そして、その後。
2018年の正月、城里町に戻ってきた。

城里町の根本さんの畑

「葉山(湘南地区)では、畑面積が小さく、渋滞もひどい。これでは身動きがとりにくいと思って、膨大な土地がある城里町に戻ってきました」

城里町に戻り、本格的に自然農で野菜を作ることに。自分の畑を持ち、自然農で野菜を作る。それを実現するには、城里町はうってつけの場所だった。慣行栽培ではなく、自然農を選んだのも、今までの「旅」で見たもの、聞いたこと、感じたことが発端にある。

「慣行栽培の現場を見たり、飲食店で化学調味料や冷凍野菜を使っている現場を見たりして、”嘘”が充満しているな、と感じていました。併せて、アトピーやアレルギー、若い世代の自殺など、世の中の矛盾が『食』から来ていると思ったから。人は食べものでできています。『医食同源』という言葉がありますが、食べることは医者に行くことと一緒という意味です。心も作るし、身体も作る。僕は『食』と『農』を通じて人を元気にすることがしたい」

城里町は、根本さんの旅の終点ではない。
故郷であるこの町を拠点に、「食と農で人々を元気にする」という目的のある旅の出発点である。
根本さんは再び、旅に出たのだ。

★根本樹弥さんの一日

「だいたい朝7時くらいに起きて。8時くらいから作業を始めます。お客さんが来る予定がある時や、出荷がある時はもう少し早く作業開始するかな。基本は管理作業。植え付け、種まき、育苗とか。今(10月)は太陽が沈んだら作業終了ですね。夏だったら月に2回は草刈りをして。夏はやることがいっぱいあるから、朝4時とか5時には起きて、夜8時くらいまで作業していますよ。ごはんも食べないで作業をすることもあります。真っ暗闇の中、畑で作業しています(笑)。水筒の水がなくなったら、家に戻るくらいです。雨の日は「晴耕雨読」を地でいっています。本読んだり、ピアノを弾いたり」

★自然農との出会い

「新島で出会った友人に、川口由一さんの本を借りて読んだのが出会いですね。あと添加物の本とか。自然農を実践したのは、城里町に帰ってきてから。葉山にいた時から通いながら少しずつ始めました。最初から何の肥料もいれていません。30年、何もしていない土地だったので、その分地力のストックがあるから、うまくいってますね」

 

★根本樹弥さんの野菜を買うには

「お客さんが畑に来てくれてその場で販売したり、電話をもらって発送したりが多いです。そのほかでは、コトノハという水戸にあるカフェに週に一度出荷しています。コトノハではコトノハ市というイベントを毎月第三土曜日に開催していて、そこで野菜を販売しています。そのイベントには企画から携わっていて、出店者を集めたりしています。毎月第三日曜日は、フォレストピア七里の森で朝市も開催していますよ」

★根本樹弥さんのやってみたいこと

会話をして、サロン的なこともやりたいですね。今日みたいなのはやりたかったこと(人が畑に来て一緒にご飯食べて、お話して)。みんなで話すと元気になるじゃないですか。つながりができると人生に広がりができる。僕が城里町に帰ってきた当初は全然つながりがなかったので、同じような境遇の人を助けたいなって。サポートできれば。会話の中で、この人とこの人は合うなとか。直感的に思うことがあって、つなげたくなっちゃう。自分を介して、みんなが楽しくなればいいなって思っています。それと、今年はDIY。友達に工務店もいるので、そこにアルバイトいかせてもらっています。でも、ベースは農ですね。農が土台にあって、そこから食が発生して、イベント、会話があってサロン。衣食住の衣は難しいけれど、次は住。マコモでしめ縄を作ったり、角松を自分で作ったり、そういうのをちょこちょこやっていたら、自分で作りたいなって思うようになりました」