野良本Vol.43 猫の本 / 夏目漱石、内田百閒、他

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犬派の人も、読むと猫が好きになってしまう本たち

家に出入りしている野良猫

家の庭に、猫が出入りするようになった。

黒猫、白猫、灰白猫。なんでこの猫どもは家にやってくるのかと思っていたら、同居している実母が餌をやっているからだった。

野良猫に餌をやって繁殖してしまうと、あとが悪い。猫の糞尿を近所に散らすし、猫アレルギーの人だっているだろう。餌をやりたいなら、ちゃんと飼えばよいのに。

「猫に餌をやるなよ。やるならちゃんと責任を持って飼いなさい」

と母に言うと、

「雀に餌をやってるのよ。猫を飼うつもりはないわ」

と言うから、始末が悪い。

元来私は猫より犬派である。我が家では私が子どものころから大人になるまでずっと犬を飼い続けてきたから。柴犬、雑種、ゴールデンレトリバー、そして最後にまた柴犬。柴犬は特に可愛かった。飼っていた頃はよく散歩に連れて行っていったっけ。私が帰宅すると出迎えてくれ、嬉しそうに腹を見せたものだった。

今は金がないから犬も飼えないが、飼うのだったら猫より断然犬がいい。なにより猫には過去に苦い思い出がある。

営業の仕事をしていた頃、客の家に猫がいた。かわいらしいと思って、じゃれていたところ、手から爪がジャキッと飛び出し、私の腕をひっかいた。腕からは血がたらーり。それから、猫がキライになった。

私がもっと幼い頃にも。野良の子猫を育てようとしたこともある。家には犬やら鳥やらを飼っていたから猫は飼えないので、近所の野原に餌箱を置いて餌をやりにいっていた。それが数日続いたある日、餌をやりに行くと猫が横たわって死んでいた。死因はわからないが、動かなくなった子猫の顔に、虫がわいていた。その姿を見て抱いた感情は、悲しさよりも恐ろしさだった。飼ってやれなかったことに、責任を感じもした。

第一、猫というやつは、ずるいやつだ。餌が欲しい時や甘えたい時だけ近寄ってきて、あとは見向きもしない。犬のような従順さがない。見た目は確かに、確かに愛くるしいのかもしれないが、そのずるい性格がどうにも好きになれない。しかも、鋭い爪でひっかきやがるときたもんだ。

猫なんて、キライでたまらないのに、私の尊敬し愛してやまない作家には、猫好きが多い。夏目漱石、内田百閒がその代表格。私が一番好きな作品は夏目漱石の「吾輩は猫である」。内田百閒は「ノラや」という名随筆を残した。だから、何だか猫がキライになりきれず困ってしまう。

ある時期を境に、家に来る猫が白猫だけになった。この子は他の猫と違って、幼さが残っていて可愛らしいと思っていた。可愛らしいと思って触ろうとすると、さーっと逃げて行ってしまっていたが、息子が面白がって白猫をかわいがるものだから、少しずつ猫の方も懐いてしまった。

ある日、玄関のドアを開けると、そこに猫がいた。じぃっとこちらを見つめたかと思うと、にゃあと鳴いた。悔しいけれど、かわいいと思ってしまった。

そうして、一度ドアを閉め、台所にいって牛乳とパンをもって、再びドアを開けてしまった。

猫の本

吾輩は猫である / 夏目 漱石
「猫視点」で明治時代の人間の暮らしを語った夏目漱石の代表作の一つであり漱石最初の小説。落語を読んでいるかのような語り口で、ところどころにくすぐりがある。主人公である中学教師・苦沙味(くしゃみ)先生の書斎が主な舞台。苦沙味の友人・元生徒らがこの書斎に出入りをし、そのやり取りの滑稽さが本作品の魅力だと思う。文字数は37万字をこえるので長編小説のように思えるが、一つの大きなストーリーと言うよりは一話一話が独立した話となっている。小説を読むという感覚よりも、落語を読むような感覚が近い。猫の滑稽さよりも人の滑稽さが際立つ「猫小説」である。この小説の影響は、ご存知の通り様々なところにあり、それは明治の時代からそうであったようで「吾輩は○○である」というタイトルの本がたくさん出版されたそうだ。

贋作吾輩は猫である/内田百閒
夏目漱石の弟子である内田百閒による贋作にして続編。水がめに落ちた苦沙味先生の猫は、実は生きていた……! 今回猫が住みつくのは苦沙味先生ではなく五沙味先生のお宅(ドイツ語教師)。登場人物は出田羅迷(でたらめい)、狗爵舎(くしゃくしゃ)などといったネーミングで百閒先生らしくて笑える。彼らと五沙味先生の話題は借金やらシャンパンの話やら……といった具合だからここにも百閒らしさが出ている。また、本家「吾輩は猫である」と比べると会話劇がやや軽快で読みやすい。百閒ならではの「吾猫」といった感じで本家とは違った面白さがある。

吾輩も猫である
猫好き作家8名によるアンソロジー。夏目漱石没後100年&生誕150年記念出版。赤川次郎、石田衣良、恩田陸に原田マハといった豪華作家人(皆、猫好きらしい)が猫視点で物語をつづる。「どうやら、私は猫と呼ばれるものであるらしい」「妾(わたくし)は、猫で御座います」「ワタクシは猫であります」「俺は猫だ。名前だって、ちゃんとある」といった具合に本のタイトル同様に、作品・作家ごとに書き出しもパロディーされているのが面白い。しかし、そのストーリーたるや、作家ごとの個性が出されていて、本家「吾輩は猫である」とはまた違った面白さがある。猫好き作家だからこそ描ける、猫のしぐさや行動パターンにの描写には、猫好きではなくともメロメロになってしまうかも。

ノラや/内田百閒
自宅の庭で野良猫から生まれたノラ。序盤はその猫をかわいがる様子が長々と記述されるが、ある日ノラが行方不明になった途端に一転文章が悲しいものに。ひたすらノラがいないことを悲しむ日々が綴られる本作品。百閒先生はノラを探すために百閒先生は猫探しの新聞広告まで出してしまう。いなくなった猫を悲しむ随筆としては、間違いなく日本一、いや世界一の作品だろう。猫好きは涙なしには読めない(これを読んだ当時の私は涙は出なかったが)。

作家と猫
昭和の文豪から現代の作家まで49名による猫の作品のアンソロジー。出久根達郎、手塚治虫、室生犀星、和田誠、寺山修二、向田邦子、中島らも、幸田文、岡倉天心、養老孟司、三谷幸喜……。古今東西の著名人がこぞって「猫」について書いている。文章だけではなく、詩や漫画も盛り込まれており、描き方もバラエティーに富んでいて面白い。猫の愛らしさをとことん描いた作品から、猫と一緒に暮らす日々の出来事を描いた作品、いなくなってしまった猫を悲しむ作品と、お話の内容もそれぞれあって、どの作品からも猫の魅力(愛くるしさと自由奔放さ)が存分に伝わってくる。それにしても、これだけ多くの作家・芸術家に時代をこえて愛される猫。その魔性の魅力を読むだけで味わえる作品集である。