プロモーション有

【茨城県笠間市】日動美術館を歩く【散歩】

コト
スポンサーリンク
スポンサーリンク

日動美術館の企画展「異世界を旅する画家たち」&常設展を美術鑑賞してアートの世界を脳内散歩しつつ、美術館内もリアルに散歩(2024/7/11)

別段、好きな作家がいる訳ではないが、突然、たまに、たまらなく、美術館に行きたくなることがある。

笠間市の日動美術館で「異世界を旅する画家たち」という企画展が開催されていて、その広告を見た瞬間「ぴぴん」ときた。「異世界」「旅」というキーワードと、開光市さんの絵に惹かれた。美術館で絵画を眺めている時は、まさに異世界を旅しているかのような感覚に陥る。その感覚をまた、味わいたくなった。高齢の母が美術好きのため「親孝行」という名目を立てて一緒に行くことにした。

受付を済ませて、いざ企画展へ。渡邊榮一さんのアリスの絵の少女性にドキっとさせられた。遠藤彰子さんのストーリー性のある絵を食い入るように見た。開光市さんの絵を見て非日常を感じた。

そして、それらの絵と絵の間にある余白。この余白が絵を際立たせ、次の絵に移る「間」となる。この間があることで、一旦気持ちを落ち着かせ、次の絵を見る心の準備ができる。果たして、この余白は意図的に作られたもの? デザインなどでは、あえて余白を大きく設けることがあるが、美術館では? あれこれと考えながら絵を見つめていると、一緒に来ていた母がもうだいぶ先に行ってしまっていた。

日動美術館内を歩く

企画展を見終えると、母が常設展も見たいというのでそちらも行くことに。階段をあがったり、さがったり、外に出たり、中に入ったり、日動美術館はまるで迷路のようだった。

(これは、もはや散歩だな)

館内を歩いているうちに、美術鑑賞とは別の楽しさを感じた。

笠間市日動美術館の中庭みたいなところ

日動美術館には中庭のような場所があって、そこに銅像がいくつも立っていて、周りは竹林、近くには山、小さな川も流れていて、それら自然がキャンバスとなってアート作品が展示されているような。もちろん、美術館の建物もアート作品の一部。美術館内を歩いている私たちも、アート作品の一部になっているような感覚に陥る。そのあたりも込みで設計されているのだろうか。さすが美術館といったところか。

日動美術館の常設展はフランス館と日本館とがあって、フランス館ではフランスゆかりの著名画家の作品が展示されていた。ピカソやドガ、モネ、シャガール、ルノワールといった美術に疎い私でも知っている有名な画家の作品が並んでいた。この時、ピカソの絵の実物を初めてみたかもしれない。ルノワールの絵を見て真っ先に思い出したのは、喫茶店のルノワールとせきしろさんの某雑誌の連載コラム「今日のルノワール」だった。ここでは藤田嗣治(レオナール・フジタ)さんの絵に心奪われた。この方はピカソと同時代にフランスで活躍された画家さんなのに、すごく現代っぽさがあって、どこかイラスト風な感じがして(良い意味でですよ、アートのこと知らんけど!)、この方の描いた絵の前では何度も足を止められた。

金山平三さんの絵

日本館では、金山平三・佐竹徳記念室をまずは見た。金山さんの絵と一緒に展示されていた日記をまじまじと見る。絵の裏側(書かれた背景)を知ることができて楽しい。佐竹さんの絵は構図に驚かされる。私なんかでは思いもよらない構図で風景を切り抜いていた。

奥谷博記念室

続いて、「奥谷博記念室」を見る。部屋に入るなり、青の世界が広がっていた。「すごい!」と母が少し大きな声で驚く。人が少ないからいいものを、人がいたら恥ずかしいだろ、と思いつつ、この部屋に入った瞬間私もすごいと小さな声をもらしてしまった。壁一面が青に染められていて、そこに絵が飾ってあった。よくよく見るとそこは「青の世界」ではなく「青と赤の世界」だった。壁は青、絵にも青色が多く使われていたが、赤色も同様に多く使われている。

「青と赤の世界だね」

思ったことをそのまま口にすると、「補色の関係ね」と母が言う。ああ、そういうのあったな、と思う。正確には赤の補色は青緑、青の補色は橙色だが。

美術館に来ると、思うことがある。

絵を見る時って、どんな風に見るべきだろう。どれが正しい絵画鑑賞なのだろう。どれくらいの時間をかけて観るものだろう。美術の勉強なんてまるでしてこなかった私はいつも正解を探す。見栄っ張りなのだろうか、「通っぽい絵の見方」を探してしまう。ということは、通っぽく見られたいのだろう。が、見ているうちに、ぴぴっと感じるものがあって、その絵の前に立ち止まりじっと見つめる。正解なんてどうでもいいし、正解なんてきっとない。もはやそんなことはどうでも良くなって、自分が心惹かれた絵に対して興味と集中が注がれる。

それから、絵の世界の散歩が始まる。絵の技法などわかりもしないのに、近づいて絵の細部を見つめたり、大きな絵だったら遠くから見たり近くから見たり。この絵は何を表しているのか。画家は何を表現したかったのか、伝えたかったのか。絵のタイトルにその答えらしいものが書いてある時もある。そのタイトルから想像を膨らませる。タイトルを見てもわからない時は、絵を見てひたすら想像する。

そんな感じで絵を見るものだから、絵を見る時間が遅い(比較対象は母だが)。私が1枚の絵を見ているうちに、母は先に進んでしまうのが常だ。

母は油絵を何十年と描いてきた人だし、美術館にもほいほいと出かけてきた人だから、いくらかは絵に詳しいようで、この人は有名だ、どこそこで個展を開いていた、なんてのたまう。その時は、既に40歳をすぎたおっさんとはいえ、遠慮なく母に甘えさせてもらい、知識をもらう。

しかし、こんな素晴らしい絵を描く人々の名を、私はまったく知らないなんて。不勉強だから、ということもあるだろうが、いや、それでも一般的なメディアではほとんどその名前を見聞したことがない。でも、絵は本当に素晴らしいのだ。いったい、どうやってご飯を食べてきたのだろう。絵で食べていけたのだろうか。それとも、仕事の合間に絵を描いていたのだろうか。

その疑問を素直に母にぶつけると、「ゴッホなんて大変だったじゃない」と質問の答えだかわからない答えを返された。私は質問の答えをもらえていないことに気付かずに、「へー、そうかー」と相槌を打つ。

今までもそのようにして、何となくアートというものに触れあってきた。何となくいいなと思い、何となく見つめて、私なりに何となく想像して。

これからも、そのスタンスは変わらないんだろうな。私の人生に、あっと(アート)驚く変化でもない限り(そんな変化なさそう)。